なぜ札幌駅の北口に劇場をつくることになったのか?

なぜ札幌駅の北口に劇場を作ることになったのか?
(一財)田中記念劇場財団理事長 田中重明

 
劇場建設については、多くの人との出会いの中で、近代都市の中核機能の一つとして求められ、必然的に導き出されたという側面もありますが、実現には北海道開拓の歴史にも絡んだ、私の高祖父と曾祖父のローカルな物語が後押しをしてくれたということもあるかもしれません。

曾祖父(母方の祖父の父)の遺産
 
北海道に最初の鉄道が開通し、札幌駅が出来たのが明治13年。駅の北側については、北8条通り、すなわち北7条までは早くから整備がなされましたが、北8条以北はしばらく原野のままだったとのことです。それが明治32年までには北15条までが区画整理され、民間への払い下げが始まりました。劇場のできる北8条西1丁目の土地は、曾祖父にあたる田中重兵衛(水戸藩士だったという)が明治初めに来道し、札幌での陶器度量衡販売などの事業に成功した後、明治35年に購入したものです。北側に隣接する北九条小学校の開校はその前年の明治34年なので、人々がその周りに住み始め、街に賑わいが出てきた頃と思われます。創成川の向かい側には明治21年に帝国製麻の工場が稼働始め、茨戸と札幌駅を結ぶ鉄道馬車が創成川沿いに走り、多くの商店が並びました(八条市場等)。そうした賑わいはみせたものの、街の発展という意味では札幌駅の南側との格差は歴然で、駅に北口の出来たのは昭和38年(明治でも大正でもなく昭和です)。長らく駅裏とも呼ばれ、駅前という立地を生かし切れていない地域でしたが、平成元年に国の合同庁舎が出来、平成18年には高層マンションが誕生するなど、駅前としての顔が順次整ってきたなか、札幌市から高度利用地区として指定されながらも最後まで難産だった北8西1地区の再開発事業も2年後の完成を目指して現在工事が進められています。
120年前の曾祖父の投資はすぐに成果を出すことはありませんでしたが、ここに「劇場のある街」となって生かされるとすれば、結果としては良かったのではないかと思います。少し時間がかかりすぎた感はありますが、劇場についてはより長い時間軸で地域に愛される存在にしたいと思います。

高祖父(母方の祖母の祖父)の遺産
 
高祖父に当たる大塚嘉久治は元彰義隊の隊士で、上野の山で敗れた後、榎本武揚率いる開陽丸で北海道に渡り、函館戦争を戦った人ですが、五稜郭陥落の時、榎本武揚が切腹しようとするのを素手で止めたという逸話が残っています。維新後は榎本の世話で開拓使に仕官しますが、その後榎本が払い下げを受けた小樽の広大な土地を管理する北辰社を任されます。その中で、嘉久治は小樽の街の賑わい作りにも尽力し、「稲穂座」という劇場、当時で言う芝居小屋を作ったということが最近わかりました。嘉久治は武勇もさることながら、若いころから唄や三味線も好きで、芝居小屋によく出入りしていたということなので、きっと劇場のもつ役割をよくわかっていたのでしょう。明治26年の開業で、小樽でも最も古い劇場の一つです。途中大黒座と名前を変えながらも、大正4年まで存続しました。当時の小樽の賑わい、文化度は札幌をも凌ぐものだったと思います。「稲穂座」という劇場名を継がないまでも、明治の芝居小屋のワクワク感を令和の札幌駅北口の劇場に再現できれば面白いと思います。

ちなみに、曾祖父・田中重兵衛と高祖父・大塚嘉久治は、共に天保14年(1843)の生まれで同じ歳。奇遇です。両者を結んだのは、曾祖父の長男と高祖父の孫娘の婚姻ですが、それは二人とも他界した後のことです。戊辰戦争を戦い、維新後の世界には素直に馴染めなかった嘉久治と明治の代で実業家として腕を振るった重兵衛とでは価値観も違っていたと思うのですが、人も少なかった明治の小樽や札幌の街のこと、両者の出会いはなかったのでしょうか。それを示唆する史料は見つかっていませんが、いずれにせよ1世紀の時をゆうに超えた令和の世で二つの物語が再び交わって新しい劇場に結実したのだとすれば、これから先の物語を紡ぐのは私たちなのだと思います。